私たちは日々、様々な情報に触れていますが、その分特定の物事を真剣に考える機会は減ってしまっています。
様々な知識にインターネットを介して簡単にアクセスできるようになった現代では、知識を集めること自体は難しくなくなりました。しかし逆に、自分の頭で考え発信されている意見が貴重なものになりつつあるのです。
そこで今回は、慶應義塾大学名誉教授であり、『考えることこそ教養である』の著者、竹中先生に「考える力を養う方法」についてお話を伺いました。
インタビューにご協力頂いた方
慶應義塾大学名誉教授
竹中 平蔵(たけなか へいぞう)
1951年、和歌山県生まれ。慶應義塾大学名誉教授。博士(経済学)。一橋大学経済学部卒業後、73年日本開発銀行入行、81年に退職後、ハーバード大学客員准教授、慶應義塾大学総合政策学部教授などを務める。01年、小泉内閣の経済財政政策担当大臣就任を皮切りに金融担当大臣、郵政民営化担当大臣、総務大臣などを歴任。04年参議院議員に当選。06年9月、参議院議員を辞職し政界を引退。ほか公益社団法人日本経済研究センター研究顧問、アカデミーヒルズ理事長、SBIホールディングス㈱独立社外取締役、世界経済フォーラム(ダボス会議)理事などを兼職。
どんなに知識を詰め込んでも本当の「頭の良さ」にはつながらない
私は拙著『考えることこそ教養である』で、「頭の良さ」とは教養があることだと述べました。その理由について、最初にお話ししましょう。
私が生まれ育ったのは地方都市の商店街で、東京の大学を出た後はアメリカの大学でも学ぶ機会をもらうことができました。今振り返っても、とても恵まれた環境で育ったと思います。しかし教養という面で見ると、海外まで行って学んできた私より、両親の方がずっと教養があると感じるのです。私が育った商店街には大学を卒業しているような人はほとんどおらず、両親も大学は出ていません。それなのになぜ教養があると感じるのか、と考えると、教養と知識は全く異なるものだから、という結論に至るのです。
知識は言い換えればファクトの寄せ集めで、これまでに確立されてきた知識がきちんと存在しています。そして、世間的には多くの知識を記憶し蓄えている人が頭の良い人だ、と捉えられます。ですが、知識は今ではハードディスクに全て詰め込まれているので、頭の中に入れている必要はありません。ネットで検索すれば知識はいくらでも、大量に見つかるのです。
一方、私が両親を見ていて感じる「教養」は知識とは全く異なる性質のものです。教養は物事に対して真剣に向き合い、様々な問題を考える中で身につきます。「考える」ことは非常に大切で、知識は「考える」ための助けにはなっても、知識だけをひたすら詰め込めばそれらを組み合わせて考えられるか、といえばそうではありません。偏差値の高い大学を出ていても、仕事では活躍できない学生の話題がたまに出ますが、ああいった話はその典型です。結論として、私は今目の前にある物事を素材に自分の頭で考えることが、私たちが人生を生きる上で最も重要となる本当の意味での「頭の良さ」、すなわち教養なのだと考えています。
具体的な例としては、大学のAO(アドミッションオフィス)入試がわかりやすいでしょう。
私は慶應義塾大学の湘南藤沢キャンパスで長年教鞭を執っていました。AO入試の入試委員長もやっていたことがあります。AO入試で見ているのは学生たちが自分の頭で「考える」ことができているか、まさしく本当の意味での「頭の良さ」なのです。大学の教授や助教授が3人ほど座っている前に17、18歳くらいの若者が座って30分も話せば、学生たちがどれだけ知ったかぶりをしても簡単に看破できるので、知識をいくらかき集めようと意味を成しません。AO入試で見ているのは知識の多さではなく、限られた知識をどのように組み合わせて自分なりの見方をしているか、言ってみれば、マイストーリーを自分の力で作れているかどうかです。
知識は後からいくらでもついてくるものですし、必要に応じてその都度集められます。だからこそ、持っている知識を使って自分の頭で一生懸命考え、マイストーリーを語れる力があることが重要であり、その力が将来人生を切り拓いていく際に欠かせないものとなるのです。
社会に出てからは正解がない問題を「考える」力が求められる
私自身も大学受験を経験しているので、偏差値の試験がいかに記憶力に左右されるかはよく承知しています。
もちろん試験には小論文などの設問もありますが、基本的には記憶力が良い人ほど有利です。反面、記憶力に自信のない人にとっては非常に苦痛となる内容になっているのが日本の大学受験といえます。しかし、海外に目を向けると事情は大きく異なります。
例えば以前、私の知っている学生でアメリカのハーバード大学医学部に行きたい、という人がいました。その学生に話を聞くと、「日本の大学入試は暗記さえすれば合格できるから、楽ですね」と言うのです。アメリカで大学の医学部に入るには、夏休みや春休みに病院でボランティアしたかどうか、リーダーシップがあるかどうかが重視されます。また、スポーツや音楽、芸術などの得意分野があることもプラスに見られるなど、人間力の高さが優秀な大学に入るためには欠かせない要素となっています。
一方の日本は、大学入試の英語の試験にはボーダーラインが定められていて、1点差の中に何百人もの受験生がひしめき合っています。たった1点の差で落とされてしまう学生が大勢いるわけですが、冷静に考えてその1点差にどのような意味があるのか、明快な説明ができる人はいないでしょう。
こうやって偏差値だけ、記憶力だけで人を判断するという日本の大学受験のシステムは、非常に偏っていると思います。
しかも、死に物狂いで大学に合格して政治や経済、社会の勉強を始めると、高校までとは打って変わって絶対的な正解がなくなるので、学生たちが戸惑うことは当然です。大学入試の中でも数学は難しいといわれますが、解けない問題は絶対に出しません。つまり、入試問題には必ず正解が存在するのです。しかし、世の中の問題というのは絶対的な正解があるものの方が珍しいでしょう。この仕事に就くことが正解か、この人と結婚することが正解か、そんなことを考えても正解など存在するはずがないのです。
それだけでなく、高校まではここからここまで覚えれば大学に受かる、と範囲が決まっていたのに、大学の勉強は急に間口が広くなります。そうなると「考える」ことが必要不可欠になり、それまで暗記だけで良かった学生たちは困惑してしまうわけです。しかし見方を変えれば、間口が広いということはどこからでも入っていけることを意味します。皆さんの目の前には今この瞬間にも多くの素材があり、円が安くなっていたのが急に戻しているのはなぜだろう、と疑問に持つことがあれば、それがすぐにでも素材となると知っておくことが大切なのです。
考える力を鍛える鍵は歴史・海外・俯瞰から問題を見つめること
もし、素材を手にしてもどうやって考えれば良いのかわからない時は、歴史をさかのぼって(川をのぼって)考えてみてください。
例えば円の価格変動について自分の頭で考えるためには、為替の知識はある程度は必要になります。しかし、もっと重要なのは過去の歴史を参考にすることです。歴史は全く同じことは繰り返さないにせよ、同じようなことは経験します。そこから得られる教訓は必ず存在しますし、海外を見てみると(海を渡ると)どの国も同じような問題で必ず悩みを持っています。なので、海外で行われた議論から学ぶために海を渡ることも大切です。
そして、「川をのぼる」「海を渡る」に加えて、「バルコニーへ駆け上がる」ことも意識するとより効果的です。
私たちの思考は、自分でも知らない間に非常に短絡的になっています。日本は現場主義といって目の前のことを重視しがちですが、現場しか見えなくなるという欠点もあるため、一度はバルコニーにのぼって高い位置から俯瞰して眺めてみる癖をつけましょう。これはリーダーシップ論の権威、ハーバード大学のロナルド・A・ハイフェッツ氏が説いている思考方法です。ダンスホールで踊っていると、狭い空間でもバンドは悪くない、照明も良い雰囲気を出している、と感じていても、バルコニーへ上がってみると受ける印象が全く異なることがあります。悪くないと思っていたバンドはビートが強すぎる、照明も青がきつい、といった問題点が見えてくるのです。そうして問題点を見つけてから現場に戻れば、スムーズに立て直しができるでしょう。
特に、リーダーを務める人には目の前の成果を追求するだけでなく、業界全体、世界全体を俯瞰して自分たちが何をすべきか考えることが求められます。
私はいつも言っていますが、本だけをやたらと読み漁っても頭には入りません。本というのは最初から最後まで、舐め回すように読む必要はなくて、自分が関心のある部分だけを読めば良いのです。大事なのは、川をのぼり海を渡っていくために物事を考える、その最初のきっかけとすることです。
「考える」プロセスをより濃いものにするには、身近なライバルを作ることをおすすめします。
「自分はこう思うんだけど、どう思う?」と周囲に聞くことができると、自分ではあまり深く考えられていなかったことでも多角的に考えることができます。それに、私は高校や大学の時にそういう人がいて、議論のライバルとして刺激を受けつつ、答弁を繰り返す中で様々な学びを得ることができました。今ではライバルであると同時に生涯の友になっていますから、ぜひそういう人を探してみてください。
周りの目を気にして思考を止めたり主張を控える必要はない
それと、今は非常に周りの目を気にする社会になっていることも気をつけましょう。
自分の主張を通そうと思えば信頼されているかどうかは大切な要素ですから、他者にどう思われているかは意識はすべきです。しかし、周りにどう思われているかを気にし過ぎると、批判を受けた時に自分が本当に主張したいことが言えなくなってしまいます。そうならないためにも、周囲から批判を受けた時でも応援してくれる人はたくさんいる、と信じることが大切です。
私は以前、金融担当大臣をやっていましたが、不良債権処理には非常に多くの反対を受けました。ただ、歴史から見ても、また海外の事例を参照しても、このまま放っておいたら大変な事態になることは明らかでした。そのため、私は自信を持って不良債権処理に取り組んでいたのですが、世間というものは面白おかしく批判して、それを面白おかしく見るような行為が注目を集めがちです。当時はやはり相当につらい思いもしたのですが、ある時、ホテルのエレベーターに乗り合わせたおばあさんからこう言われたのです。「竹中さん、あなた大変ね。でもあなたの言っていることは正しいわよ。こんなばばあでもわかりますから」この言葉はとても嬉しくて、今でも深く心に残っています。
他者を批判する人はすぐ表に出てきて目立ちますが、本当に高い教養のある人は人格攻撃などしません。教養のある人々は、私が出会ったおばあさんのように陰ながら応援してくれているものです。今でも人格攻撃をされることはありますが、気の毒に、うっぷんを晴らさずにはいられないのか、と割り切って見るようにしています。
私の上司だった小泉元総理も、「これは叩かれた人じゃないとわからないな」と笑っていました。ただ、小泉さんはその後こう仰ったんです。「でもね竹中さん、悪名は無名に勝るから」と。これはきっと、小泉さん自身が総理という立場に立って様々な批判を受ける中で悟られた境地なのでしょう。
悪意を持っている人というのは、こちらがどんなに心を砕いて丁寧に説明しても批判してきます。
しかし私の父や母のように、たとえ大学を出ていなくても物事を真剣に捉え、考えている人は必ずいます。人にどう思われるかを気にすることは人間関係における良い面でもありますが、私は歳を取るにつれて、自分は人に褒められるために生きているわけではない、と思うようになりました。人生で使える時間は限られているのだから、自分の気持ちに嘘をついて生きていくことはあまりにもったいないことです。やりたいことをやって、主張したいことを主張するために、教養のある、一生懸命考えている人たちの存在を信じて欲しいのです。
陸上の200mハードルでメダルを獲得した為末大選手は、とても良いことを言っていました。
彼は高校生の頃まで、陸上の100mでオリンピックの金メダルを取ることが夢だったそうです。しかし、大学に入って記録が伸び悩んだことで、夢の実現と向き合うことになりました。彼は「なぜ自分はオリンピックの100mで金メダルを取りたいと思ったのだろう」と考え、「100mはオリンピックの一番最後に決勝が行われる、花形競技だからだ」と答えを見出したのです。その答えは、自分が100mでオリンピックの金メダルを取る、という自分の夢が「みんながすごいと思ってくれるから」、つまり周りの目を意識して決めたものだったという事実を彼自身に気づかせました。そして、他者からどう思われるかで夢を決めていたことを反省し、自分が本当にやりたいことを考えるところに立ち戻った、と為末大選手は言っていました。
「考える」力が教養として身につき自分の人生の道しるべになる
今の社会というのは、批判さえすればネットで「いいね」がたくさんつきます。
一方で、正論を述べたところで大して「いいね」はこないことをメディアもわかっているので、報道でもまず批判が前面に出るようにしています。問題は、そういう報道の仕方をしていると本当に物事を考えている真に頭の良い人がますます新聞や、テレビ番組から離れていくことです。これは現代社会では世界共通の悩みとなっていて、社会が分断されている、ということにもつながります。
分断の理由のひとつには所得格差が挙げられ、アメリカやイギリスほどではないにしろ、日本でも確実に広がってきています。そしてもうひとつが、情報空間の分断によって「おすすめ」表示がされることです。例えばネットショップで本を購入すると、似たような本が自動的に優先表示されます。そういう本ばかりを読んでいれば知識も思考も偏りますし、同じような人同士が固まってネットワークを作れば、やはり似たような考え方をしている人たちが集まるので、特定の感情をどんどん高めていってしまうのです。
昔はNHKスペシャルや新聞の社説などで、情報を横につなげる社会的装置が機能していました。ですが今はそれらのクオリティも下がり、分断には歯止めがききません。それこそ、2020年のアメリカ大統領選で不正が行われたとトランプ氏の熱烈な支持者たちが心から信じていることは、分断の代表的な例でしょう。
こうして社会の分断が起きていることはこの上なく危険なことですが、分断を防ぐ鍵となるのも表面的な情報ばかりを拾うのではなく、自らの頭で考えることなのです。完全に分断されるような状況を回避するためにも、物事を真剣に考えて教養を身につけ、一人ひとりが社会を作っていく意識を持って欲しいと思います。
日本では勉強するのは大学に入るまでで、大学入試が一種のイベントのようになっています。ですが、先日小泉さんと食事をした時にこんな言葉を仰っていたので、最後にご紹介します。
「少にして学べば、即ち壮にして為すことあり。壮にして学べば、即ち老いて衰えず。老いて学べば、即ち死して朽ちず」
大人になっても学び続ければ歳を取っても衰えず、老いてもなお学び続ければ死んでからも自分の存在が朽ちることはない、という意味です。これは江戸時代の儒学者・佐藤一斎という人の言葉で、人は死ぬまで一生学び続けなければならない、と言える佐藤一斎のような人こそが本当の教養人でしょう。後日、佐藤一斎の本を買って読んでみたら、こんな言葉もあったので皆さんにお贈りします。
「一灯をさげて暗夜を行く。暗夜を憂うなかれ、一灯を頼め。」
これは周りが暗くて何が起こるかわからず恐ろしい時でも、自分の手元にある一灯を信じて前に進め、という意味です。大切なのは周りがどう思うか、ではありません。自分が何をしたいか、何をすべきかを考え抜いて一灯とし、信じた道を進んでください。人の生き方、まさしく教養につながる言葉として、皆さんも迷った時にはぜひ思い出していただきたいなと思います。
取材・執筆:World Academic Journal 編集部