広島大学 柴田美紀 教授
英語力が向上しないと思うのは、ネイティブ英語への拘りと「英語力」の解釈に問題あり?!

諸外国と比べると、日本人の英語力は低いと指摘されてきました。

読者のみなさんも英語を懸命に勉強しているのにコミュニケーションがうまくできないのはなぜなのか、悩んだことがあるのではないでしょうか。

そこで今回は、日本の英語教育が抱えている問題点と、英語でコミュニケーションを取る際のポイントについて、広島大学の柴田先生にお話を伺いました。

インタビューにご協力頂いた方

広島大学 大学院人間社会科学研究科 教授
柴田 美紀(しばた みき)

アリゾナ大学(University of Arizona)博士。専門は第二言語習得。特に言語イデオロギーと第二言語学習者・使用者のアイデンティティに関わる研究。沖縄大学、琉球大学を経て2011年10月より広島大学。2018年度から総合科学部国際共創学科、2019年度から人文社会科学研究科で教育と研究に携わる。

主な著書に『沖縄の英語教育と米軍基地―フェンスのうちと外での外国語学習』(丸善出版、2013年)、『英語教育の素朴な疑問』共著(柴田美紀・横田秀樹) (くろしお出版、2014年)、『英語教育のための国際英語論―英語の多様性と国際共通語の視点から』共著(柴田美紀・仲潔・藤原康弘)(大修館書店、2020年)などがある。

日本の英語教育の課題①:コミュニケーション能力を伸ばす教育になっていない

日本は今、英語教育に理想と現実のギャップという大きな課題を抱えています。問題点は主に2つあり、1つ目は言語知識の学習と英語コミュニケーション能力の向上、2つ目は文科省が目指すコミュニケーション能力の育成と入試の乖離です。

まず1つ目からお話しすると、英語でコミュニケーションを取るにはまず英語の基礎的な言語知識を学ばなければなりません。文法学習をしていなければ相手が話していることが理解できないだけでなく、相手に伝えたいことを文章として発信することも難しいためです。英語コミュニケーション能力を向上させるため、日本でもコミュニカティブ・アプローチという教授法が取り入れられました。この教授法では英語を使う(話す)ことが重視され、「文法は気にせずとにかくしゃべってみる」「文法はそのうち身につく」という解釈にまでつながりました。しかし、基本ができないまま応用しようとしても思うような効果は得られないため、ベースとなる言語知識の学習はやはり欠かせないのです。

また、文部科学省(以下、文科省)は英語によるコミュニケーション力の向上のために英語で授業を行うことを基本としていますが、これには大きな誤解があります。英語が話せることと英語で教えられることとは全く次元が違うのです。そもそも英語の先生は英語で授業をするような指導法を学んでいませんし、実践練習も行っていないので、いきなり英語で授業ができるようになるわけがありません。加えて英語の「いろは」も知らない生徒に対して英語で授業をしても、内容を理解するのはほぼ不可能でしょう。それなら、母語である日本語で英語の文法を説明するほうが効率的です。言語知識と言語運用のプロセスは別物なので、正直、同時並行での学習・向上は難しいと思います。そのため、現場の先生たちは英語のみで授業をするのではなく、生徒の英語力に合わせて日本語も使いながら授業を行っていて、英語に触れる機会、使う機会を増やそうと創意工夫、努力をしています。

2つ目については、英語の入試問題が選択形式や英文和訳、和文英訳などの言語知識を測るものとなっていることが主な問題点です。文科省はコミュニケーション能力の育成を目指していますが、これは入試問題の内容とは大きく乖離したものとなっています。「グローバル社会に求められる英語力」と「入試を突破するために必要な英語力」は全く異なり、前者で求められるのは英語でのコミュニケーション能力、後者で求められるのは学習した文法から適切な語彙を選択・応用するスキルです。例えば、長文読解問題などで空欄に適切な語彙を選択する問題です。

両者とも英語という言語を応用することは同じですが、試験が個人で行うものであることに対し、コミュニケーションには相手がいます。特にグローバル化が進む昨今では、英語でコミュニケーションをする相手の多くは言語文化的背景が違う人たちです。世界観や価値観が異なる状況でコミュニケーションを行うためには、言語知識だけでなく、言語運用能力や方略的能力(ことば以外の手段でコミュニケーションを補う力)なども必要です。そして、究極的に円滑なコミュニケーションの本質は相手への配慮です。

こうした英語教育の理想と現実とのギャップが指摘され始めたのはずいぶん前のことですが、今もなお同じ問題を抱え続けています。結果として、現場の先生は日々試行錯誤しながら英語教育と向き合わなくてはならず、生徒からも「文法ばかりで話せるようにならない」という不満が上がる状況になってしまっています。

日本の英語教育の課題②:TOEICの得点=英語力という誤解

日本の英語教育から派生している課題としては、TOEICに対する誤った認識も挙げられます。ビジネスパーソンの間では、TOEICの点数を上げなければならないという思い込みが浸透しています。日本企業でもTOEICの得点で英語力を評価しているケースが多く見受けられますが、TOEICによって測定している英語能力は、主にあくまでも言語知識を踏まえた読解力と聴解力です。つまり、TOEICでどんなに高得点を取っていても、英語のコミュニケーション能力があるかどうかはわからないのです。にも関わらずスコアが独り歩きをしている現状では、社員はスコアを上げることに終始してしまい、本来の目的であるコミュニケーション能力が育ちません。企業がTOEICで英語力を評価しようとしているうちは、英語をコミュニケーション・ツールとして使える社員はなかなか育たないでしょう。

また、一般的には「英語ができると仕事で有利になる」「英語力があると収入が上がる」といった認識も広まっています。しかし、実際の調査(※)では英語力と収入の関係のみに絞ると確かに収入差は見られるものの、学歴や就労環境、職種などの方が大きく影響しており、英語力だけで収入が大幅に左右されるとはいえません。

※寺沢拓敬(てらさわ たくのり)『「日本人と英語」の社会学』研究社 2015年

日本の英語教育の課題③:ネイティブ・スピーカーの英語は正しいという思い込み

日本の英語教育では、ネイティブ・スピーカーの英語は正しいという思い込みを生んでしまっている点も大きな課題です。ネイティブ・スピーカーの英語を規範として教えている日本の英語教育だと、「ネイティブのように話せないから恥ずかしい」「ネイティブのような発音ができないから自分は英語が話せない」と自信を持てなくなっているケースが少なくありません。

日本ではネイティブ・スピーカー、特にアメリカ英語をお手本として学習しています。しかし、それが「ネイティブ・スピーカーの英語は正しい」という前提にすり替わってしまうのは問題です。日本語に関西弁や九州弁といった方言があるように、アメリカ人も全員が同じ英語を話しているわけではありません。私がオハイオ州の大学で修士課程を学んでいたとき、アメリカ人の友人たちの会話を聞いていて、初めて炭酸飲料には「pop」と「soda」という2つの表現があると知りました。炭酸飲料はオハイオだと「pop」ですが、ニューヨークから来たアメリカ人の友人は「soda」だと言っていたのです。

こうした地方による違いに加えて、社会を構成する集団にも使用する英語に違いがあります。例えば、日本人に馴染みがあるのは白人のアメリカ英語です。しかし、アフリカ系アメリカ人の英語、ヒスパニック系アメリカ人の英語になると、文法、発音、語彙、用法などが異なります。これらの英語は使用者にとってアイデンティティの指標であり、自己を表現する手段です。ネイティブ・スピーカーは日本人が学校で習った文法とは異なる用法を使っていますし、世代によって使用するスラングや若者ことばにも違いが出てきます。以前、70代後半の日本人の英語の先生のアシスタントをしていた、私のカナダ人の30代の友人は、「あの先生が教える英語の表現は今ではほとんど使わなくて、私のおばあちゃんが使うのは聞いたことがある」と言っていました。つまり、一口にネイティブ・スピーカーと言っても、皆が同じ英語を話しているわけではありません。「正しさ」を問題にするなら、同じ言語でもその尺度は地域や集団によって異なっているのです。

言語は各地に広がっていく過程で使用者の社会文化的背景に影響され、少しずつ変化していきます。日本語も英語も、社会の動きを反映して変化する創造性を持っているのです。

例えば、私は「食べれる」「来れる」という「ら」抜き言葉に抵抗を感じてしまうのですが、そういった表現を使う人に対して「その使い方は間違っている」と指摘したりはしません。言葉に創造性があるからこそ、私たちは新たな単語や表現を生み出すことができるからです。しかも、ことばの創造は母語話者だけの特権ではなく、英語を母語としない人が使うからこそ新しい英語が生まれるともいえます。そして、重要なのはこれらの英語が独自の英語として社会で問題なく機能していることです。

そのため、特定の英語だけを規範として、他に存在する多様な英語の正誤を判断することに意味はありません。むしろ言語を正誤で判断しようとする姿勢こそ、ネイティブ・スピーカー対ノンネイティブ・スピーカーの優劣関係の元となり、多くの日本人の意識に根付く結果となってしまっているのです。英語でコミュニケーションできる人材を育てるには、言語知識だけでなく英語そのものに対する意識・態度を変えていくことが欠かせません。日本の教育者や企業がすべきことは、教授法や学習方法の試行錯誤の前にこうした問題を認識し、意識改革を行うことではないでしょうか。

日本人が英語学習で意識すべきこと①:英語は話者によって微妙な違いがあり、完璧な英語である必要はない

その上で今後、日本人が英語学習で意識すべきことは、2つあります。1つは、英語は多様な言語文化的背景によって異なり、話者によって使っている英語は違うと気づくことです。コミュニケーションは相手との協働作業であり、英語はそのための手段です。ここで重要なのは英語はネイティブ・スピーカーとコミュニケーションを取るためのものではない、ということです。具体的に例を挙げながら説明していきましょう。下の図はWorld Englishesを唱えた著名な研究者ブラジ・カチュルが、1985年に提唱した「3つの同心円モデル」(Three Circles model of World Englishes)です。歴史的・社会文化的背景に応じた3つの円で英語を分類しています。

最も中心にあるのが「内円」で、いわゆる英語圏、英語が主要言語となっている国や地域です。「内円」の外側にある「外円」は英語が社会の中で公用語、もしくは第二言語として使われている国のグループです。旧イギリスやアメリカの植民地だった国、例えばインドやシンガポールが「外円」にあたります。そして、一番外側の「拡大円」が日本を含む、英語を外国語として学ぶ国々です。円の大きさは英語使用者の数と比例しているので、「拡大円」の英語使用者が最も多いことが見て取れます。一般的に英語は「内円」、すなわちネイティブ・スピーカーの言語と理解されがちです。ですが、「外円」でも植民地時代に入ってきた英語が現地の人々によって使われていくうち、社会文化的世界観や価値観を反映した独自の英語が生まれてきたという歴史があります。従って「外円」の人びとは、現地で創造された英語の「ネイティブ・スピーカー」なのです。同心円モデルは1985年に発表されたものですが、現在の英語事情を鑑みて、このモデルを元にして英語に対する3つの見解が生まれ、研究が続けられています。

1つ目の見解は、World Englishesです。World Englishesでは、主に「外円」に属している英語の特徴に焦点を当てた研究を行っています。国や地域によって多様、かつユニークな英語があることを示すために、Englishが複数形のEnglishesとなっています。

2つ目の見解は「リンガ・フランカとしての英語」[English as a lingua franca(ELF)]です。ELFは母語が異なる人びとが用いる共通語としての英語を意味します。言語文化的背景が異なれば話す英語も変わりますから、ELFはそういった多種多様な英語の集大成です。なお、リンガ・フランカは英語のみに限定されません。母語が違う対話者の間で共有されている言語が仮に日本語なら、日本語がリンガ・フランカとしてコミュニケーション・ツールになります。ELFの研究者らは主に「拡大円」に属する英語に注目し、異なる言語文化的背景を持つ人々がどのようにコミュニケーションするかを研究しています。英語を共通言語としていても、母語の影響によって(ネイティブ・スピーカーの英語を規範とすると)非文法的であったり、存在しない語彙が会話の中で使われることがあります。実際に、ヨーロッパの英語使用者の話しことばを分析した研究では、3人称単数現在の-sの省略、ネイティブ・スピーカーとは異なる不定・定冠詞の使用を含め複数の文法的特徴が報告されています。これらの特徴は私たちが規範とする英語からすれば誤った使い方ですが、人間言語の体系から大きく逸脱しておらず、コミュニケーションを妨げるものではありません。こうした研究結果は、コミュニケーションの成否が英語の言語的正しさだけで決まるものではない、という事実を裏付けているといえるでしょう。

3つ目の見解は、「国際語としての英語」English as an international language(EIL)です。英語の多様な現状に着目していることはWorld EnglishesやELFと共通していますが、異なるのは英語教育における具体的なアプローチを議論し、提言を行っている点です。国際語として英語を使う時は必ずしもネイティブ・スピーカーの英語である必要はないのですが、かといって各々が独自の解釈で英語を話していい、ということにはなりません。話したことを多くの人に理解してもらうには、やはりお手本となる英語を学んで、発音・語彙・文法など言語運用に必要な基本的言語知識を理解しておかなければならないのです。ただし、先ほどお話ししたように「ネイティブ・スピーカーの英語」を強調してしまうと、「ネイティブ・スピーカーのように話せなければならない」という思い込みに結びついてしまう危険性があります。さらに、そうした意識を持ってしまうと英語で話すことに躊躇し、使わないからコミュニケーション能力がうまく伸びないという負のスパイラルに陥ってしまうことが危惧されます。そのため、英語教育の現場ではこのことを常に意識し、教え方を工夫することが求められます。

グローバル化した多文化共生社会では、英語は相手とコミュニケーションを取るために欠かせない言語手段です。先にも触れたように、グローバル社会におけるコミュニケーションの相手は、私たち日本人と同じように英語を母語としない人たちのほうが多いのです。従って、お互いが独特の英語を話すからこそ忘れてはならないのは、コミュニケーションとは協働作業であること、そのために重要なのは相手の言っていることを理解し、こちらの意図を伝えようという意識を持つことです。

また、言語は変化していくものなので、ネイティブの英語をお手本に学習したとしてもアウトプットされる英語は言語文化的背景によって変わるのが当然です。なので英語を学び、実際に発信した英語がニホン英語であっても問題はありません。英文としての完璧さ、文法の正しさに穴があっても構いませんし、もしうまく伝わらなければ他の言い方を試す、ジェスチャーを交えるなどして伝える努力をしてみましょう。それこそが本来のコミュニケーションです。

日本人が英語学習で意識すべきこと②:コミュニケーションの本質を問う

日本人が英語学習で意識すべきことの2つ目は、コミュニケーションの本質を自分なりに解釈することです。私は日本人がコミュニケーションができない、向いていないとは思いませんが、消極的であることは否定できません。日本人は会話の中で分からないことがあっても直接相手に聞き返すことはせず、相手の真意を読み取ろうとします。これは文化的価値観ともいうべきもので、日本人のコミュニケーション・スタイルは欧米系の人とは大きく異なります。とはいえ、私がお伝えしたいのは英語でのコミュニケーションなのだから、ネイティブ・スピーカーと同じスタイルにしなければならない、ということではありません。言語文化的背景が異なる人同士でコミュニケーションをする時は、英語のネイティブ・スピーカーも含め、自分がこれまで経験してきたスタイルが有効でない場面も出てきます。つまり、どちらのスタイルが正しいという話ではなく、相手のスタイルに合わせたコミュニケーションが求められることもある、と知っておくことが重要なのです。

その上で再度確認すると、コミュニケーションとは対話者との意味交渉であり、協働作業です。言われた意味が分からない時やあいまいにしか理解できない時、自分の理解に自信が持てない時は、「分かりません」と意思表示をしたり、質問して確認することが意思疎通の第一歩です。「話せばわかる」「相互理解」といった言葉もありますが、ビジネスの場で受け身の姿勢を取っていては重大な問題が生じかねません。コミュニケーションを通じて相手とウィンウィンの関係を築くためには、まずは自分から発信し、協働作業に加わる姿勢が必要不可欠です。特に英語でのビジネス交渉となれば、TOEICの得点だけではうまくコミュニケーションが取れないことはすでにお話しした通りです。英語を社内公用語にしよう、となった場合も同様で、単純に英語力を向上させればスムーズにやり取りできるか、といえばノーでしょう。

私はコミュニケーション力を対話力と置き換え、次の3つの構成要素から成ると考えています。

  • 知識(言語知識、一般知識)
  • 態度(意欲、忍耐)
  • スキル(創造的言語使用、批判的内省力、読心力)

また、アジア英語の第一人者であった故本名信行先生が提唱する相互調整力もコミュニケーションには必要です。相互調整力とは、下の3つの包括的対応能力が合わさったものを指します。

  • 相互作用能力
  • 相互順応能力
  • 多様性

TOEICの点数を上げるためにがむしゃらに勉強したところで、コミュニケーションとは何か、コミュニケーションを図るために意識すべきことは何かを考えなければ、英語を学ぶ本来の目的であるコミュニケーション力は上達しません。コミュニケーション力を鍛えるには、コミュニケーションに対する意識を変えた上で対話力、相互調整力の両方を磨かなければなりません。もちろんこれは英語に限らず、私たちの母語である日本語にもいえることです。日本人なら全員が日本語で上手にコミュニケーションできているか、といえばそんなことはないはずです。どの言語であっても、対話力や相互調整力は必要になるのです。このことをビジネス界がしっかりと認識し、対話力・相互調整力まで含めた英語教育に力を入れていくことが、真に英語のできる社員の育成へとつながると思います。

最後に:言語レパートリーは不完全な言語で形成される

もし読者のみなさんが「英語の勉強に取り組んでいるのに、なかなか英語力が向上しない」と悩んでいるなら、言語レパートリーという考え方をご紹介します。

私たちは、ひとりひとり違った言語レパートリーを持っています。例えば私なら、いわゆる共通日本語に、愛知県出身なので名古屋弁、ウチナーヤマトグチ(13年間沖縄にいたので)、アメリカ英語、オーストリアのドイツ語、どちらかと言えばメキシコのスペイン語、スワヒリ語が言語レパートリーです。こう言うと、「すごい!英語以外に、そんなに外国語ができるんですか!」と驚く人もいるかもしれません。ですが、私の外国語レベルは英語以外、どれもあいさつと自己紹介ができるくらいの超初級です。「超初級なら、嘘じゃないですか」と言われそうですが、嘘かどうかは言葉の捉え方次第です。言語を1つ、2つと数えられると思い込んでいるのなら、もちろん私の申告は嘘になるでしょう。ですが、私はそれぞれの外国語が「できる」とは言っていません。ネイティブのレベルで「できる」かといえば、私は1つもそのレベルに達していません。そもそも言語とは「できる」「できない」という二者択一しかないのでしょうか。

「日本語が話せますか」と質問すれば、日本語母語話者なら「はい」と答えるでしょう。ただ、「英語が話せますか」という質問になると、どんなに英語が上手でも「はい」と答えることに躊躇する人が多いのではないでしょうか。ネイティブ・レベルではないけれど、それでも私の中では、英語は言語レパートリーのひとつです。そして、超初級の外国語も言語レパートリーに入っています。個人の言語レパートリーは不完全な言語から形成されていて、たとえ「完全な」英語でなかったとしても機能はするのです。

ですから、英語学習に取り組まれている読者であれば、言語レパートリーの中には間違いなく英語が存在します。今のレベルでも何とか機能します。それに、言語は使えば使うほど上達するのだから、恥ずかしがらず積極的に使いましょう。そして、できれば英語以外の外国語も勉強して言語レパートリーを増やしてみてください。豊かな言語レパートリーを形成するほど、多言語・多文化共生社会でのコミュニケーションにはプラスに働いていくはずです。

取材・執筆:World Academic Journal  編集部