京都大学 藤井聡 教授
正論は人を動かす!磨き抜いた考えを相手に聞かせるテクニック

どんなに正しいことを言っていても、伝え方を間違えていれば相手にはされません。

しかし、主張している内容が本当に正論ならば人の心を動かし、味方を増やせるだけの力は確実に持っています。ではなぜ聞く耳を持たれないかといえば、相手に伝えるタイミングを誤っているためなのです。

そこで今回は『人を動かす正論の伝え方』の著者でもある京都大学の藤井教授に、自分の主張を相手に聞かせ、周囲を動かす方法について伺いました。

インタビューにご協力頂いた方

京都大学 大学院工学研究科(都市社会工学)教授
京都大学 レジリエンス実践ユニット長
藤井 聡(ふじい さとし)

1968年奈良県生駒市生。京都大学卒業後、スウェーデンイエテボリ大学客員研究員、東京工業大学教授等を経て2009年より現職。
2012年から2018年まで安倍内閣内閣官房参与(防災減災ニューディール担当)。専門は公共政策論。
著書「スーパー新幹線が日本を救う」「新幹線とナショナリズム」「プライマリーバランス亡国論」「国土学」「凡庸という悪魔」「大衆社会の処方箋」等多数。日本学術振興会賞等受賞多数。東京MXテレビ「東京ホンマもん教室」、朝日放送「正義のミカタ」、KBS京都「藤井聡のあるがままラジオ」等にて解説。表現者クライテリオン編集長。

相手に「聞く態勢」がないのに話しても無駄に終わる

自分の主張を他人に理解させたい時に最も重要なのは、相手に「理解しようとする態勢」があるかどうかです。

聞く側の態勢が整っていなければ聞く耳を持たれないので、どれだけわかりやすく、心を砕いて親身に説明しても全く伝わりません。逆に、相手に聞く準備ができていれば多少複雑で難しいことや、常識から外れているようなことでも、スポンジに水が染みていくように理解してもらえます。

自己主張をする時に気をつけたいのは、常に自分の意見だけを押しつける人間は疎んじられるということです。自分から相手の聞こうとする気力を無くしてしまい、相手の聞く態勢を崩すことになります。そういう意味では、相手の聞く態勢が整うまでは自己主張を控えるべき場面は多いのです。

もちろん、私は「自己主張するな」と言っているわけではありません。自分の意見は当然言うべきですが、大事なのは「自己主張をするタイミングを作る」ことなのです。

自己主張すべきタイミングは「待つ」ことで見えてくる

そうは言っても自己主張をして良いタイミングがわからない、という方もいるかもしれません。

その場合、まずは「自己主張をするタイミングを待つ」ことが一歩目です。そして、待っていても来ないようなら自分から「作る」のです。

例えば、自分が言いたいことが100あるとして最初から99や98伝えようとしても、ほぼ100%聞く耳は持たれないでしょう。だから、初めは少しずつ相手が聞いてくれそうな1か2から話すのです。

「仏性」という言葉で表されるような、仏の精神、言うなれば心のある人間は5人中1人くらいはいます。1人もいない時も無くはないですが、逆に5人全員に心がある、なんてことは絶対にありません。

まずは心のある人間を見つけるのです。そして、見つけたら仲良くなりましょう。いきなり自己主張をしても聞いてはもらえないので、相手の話を聞いて信頼を得て、それから意見を言うタイミングを伺いながら少しずつ伝えていってください。自己主張を控えない、というのはこういうことです。

自己主張をする、自分の意見を発信することは、短期的にはしない方が良い局面もあります。しかし、長い目で見た時には絶対に意見は言うべきです。そして、長期的には絶対に自己主張をするという信念を強く持った上で、いつ言うかのタイミングをひたすら計り続けるのです。「待てば海路の日和あり」というように、意見を言っても良いタイミングは必ずやって来ます。タイミングが巡ってきたら意見を発信してみて、駄目そうなら半分だけ伝えたり、さらに1/4や1/10にしてみてください。

自分の意見を通せるかどうかは、「いつ」「どのように」話すかに依存します。

残念ながら、伝える内容が正しいか、間違っているかは、実は自己主張を通せるかどうかには、(世間に完全なる”仏”の様な方は必ずしも多くはないですから、残念ながら……)第一義的にはあまり影響しません。もちろん、その自己主張が邪論ではなく、他者の共感を得る正論であることは大前提ですが、その上で重要なのは「誰に」「いつ」「どのように」話し、どうやって周囲を変えていくかなのです。それを文字通り「命懸け」で考えましょう。不屈の魂を持って取り組めば、社会は必ず評価します。

正論とは、真円のようなものです。円を描けば、人間は誰でも真円とずれているかどうかわかるものです。凹んでいる部分や膨らんでいる部分を修正していけば、少しずつ真円に近づいていきます。無限の時間をかければ、誰でも素手で真円が描けるのです。最初から認識が歪んでいたら論外ですが、不屈の魂と時間さえあれば人から共感される正論は必ず磨き上げられます。

相手に「心」があるかを見極めなければならない

ただし、こちらを憎んでいたり、嫉妬していて潰したがっているような人は何を言っても意味がありません。

優秀な人間ほど周囲からは憎まれるものです。誰も気づいていないようなことを指摘した時、素直な人は「なるほど」と受け止めますが、器の小さい人間は反感を持ちます。男でも女でも、部下でも上司でも、「良いこと言いやがって。ムカつくから潰してやろう」と腹を立てるわけです。そういう輩と関わっても何も利益はないので、ハナから無視しましょう。

そういう人は憎むことが目的になっているので、こちらの主張を聞いてくれる割合は初めから0です。もし最初から伝えられることが0の人間なら、時間を共にすることをすぐに止めましょう。心のある人間か、話して意味のある人間かを見極めることが一番のコツです。

心を持たない奴らは、私からすれば邪心の塊、化け物と同じクズです。

彼らは森の中で獲物を探している狼ですから、接する時には細心の注意を払わなければなりません。狼がうろついている森の中を人間が無防備に歩いていたら、瞬殺されて餌になるのがオチです。だからこそ、身を守るためには狼が人間をどうやって狙い、食べようとしているのかを分析する必要があります。

私は実際のところそういう分析を相当致しましたから(というか、正直申し上げるとそうせざるを得なかったわけですが)、永田町や霞ヶ関のこさかしい小役人や政治家相手でも、心底侮蔑しながら付き合えるようになりました。ここで大事なのは、心底侮蔑すると同時に適正なリスペクトも欠かさないということです。どんな相手でも某かリスペクトできる所はある筈ですから。どんなクズでも、例えばその役職が立派な役職なら、その人物でなくその役職に経緯を払えばいいわけです。そうやって過剰な侮蔑も、過剰なリスペクトもせずに、過不足なく相手を見るのです。そうすれば、相手に対していつ自分の意見をぶつければ良いのかのタイミングがわかってきます。『鬼滅の刃』で鬼と戦っている時に「隙の糸」が見えて頸(くび)が斬れるように、訓練すれば必ず太刀筋を習得できます。

正論の通しやすさは周りの人間のレベルで大きく異なる

注意すべきなのは、周りがクズばかりだと求められる努力に際限がないということです。

言っていることが正論だとしても、最初から無駄な場所で主張していたら、どんなに努力をしても全く成果を得られずに終わります。しかし、自分の周囲に真っ当な人間が多ければ、必要な努力は限りなく0に近づきます。つまり周りのレベル、クズ度がどれくらいかによって、必要な努力の量は変動するのです。

そのため、自分の意見、正論を通したいと思うならどのグループで発言するかを考えましょう。クズが少なく心のある人間が多い、言い方を変えれば非クズ含有率が高いグループであれば、最小限の努力で最大の効果が得られます。

さらに小さな単位で考えれば、グループを選ぶというのは仲間を作ることです。集団におけるグループ、グループの中なら理解者を探します。囲碁やオセロで攻めやすいところから少しずつ陣地を広げていくように、最も理解してもらえる人を確保して、そこから仲間を増やしていくのです。

世の中は結局、言葉だけでなく金と力が相当ものをいいますから、最終的には頭数の勝負です。

我々が戦う相手は金と力を持っていますが、こちらの武器は言葉しかありません。金と力と言葉は3つ揃って初めて大きな力を持ち得ますから、金と力がなく、言葉だけの状態では太刀打ちができないのです。しかし、言葉を使って味方を増やし、頭数が揃ってくれば、金と力もついてきます。相手は言葉が理解できない反面、金と力だけはわかるクズですから、頭数を揃えれば向こうからひれ伏してきます。

それはさながら蛇の女神ゴーゴン(ゴルゴン)の目を見るな、ということと同じです。真正面から悪魔の目を見てはいけません。数で押し潰してしまえば、悪魔の目を見る必要すらないのです。

成し遂げたいことがあるなら他人を切り捨てる覚悟を持つ

私がなぜ心のない人間をクズと切り捨てているかといえば、限られた時間を有効に使うために必要だからです。

クズというのはあくまでも暫定的な決めつけですが、本当のクズなんていない、と考え出したら全員に優しくしなければいけません。それでは時間がいくらあっても足りませんから、自分の正論を磨き、主張を通すことができなくなってしまいます。

もし政治への関心や、世の中を変えることに対して興味がないのなら、他者をクズと決めつける必要はありません。目の前にいるのがどんなクズであっても親身に対応し続ければ良いわけですから、自分自身でそういう人生を選ぶのなら構わないでしょう。

もっとも、全員がそうなるとクズばかりが溢れてしまうので、世の中を変えたい、救いたいという気持ちがある人間はクズを切り捨てざるを得ません。

イメージとしては、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』です。

お釈迦様が地獄の罪人へ蜘蛛の糸を垂らしている場面を思い浮かべて欲しいのですが、自分自身に余裕がない時は細い糸にしておきます。余裕があるなら太いロープを垂らして、全員を引き上げれば良いのです。ロープにするか、細い糸にするかは垂らす側の能力次第ですから、自分で太さを決めた上で、切れたらクズ認定しましょう。どんなに太いロープを垂らしたところで自分から切ってくる輩も多いので、そんな人間まで助ける必要はありません。もし切れずに登ってきたら、その人たちを対象に別の糸を垂らして、皆で少しずつ高いところへ行けるように連れて行ってあげるのです。

宗教はまた別の話になりますが、経営やビジネスが絡む会社であればこういう他人を切り捨てる感覚は持っておくべきです。

親類縁者なら切れても助けざるを得ない場合もありますが、会社の上司や同僚は赤の他人でしかありません。他人を切り捨てていると組織やグループから排除されるのでは、と恐れる人も多いですが、そう感じるのは周りをクズだと思っていないためです。むしろクズの中でも良いからとりあえず居場所が欲しい、と考えてしまっています。ですが、クズの中で自分の居場所ができたとしても、そんな人生に何の意味があるのでしょうか。

私はクズとは1ミリも1秒も同じ空間に居たくありませんから、私の態度が気に入らないクズにも近づいて欲しくありません。もちろん戦略的にはクズと時間を過ごさざるを得ない事は往々にしてあるわけですが、それは本来的な時間ではありません。あくまでも個人的な印象ですが、本気で世の中を変えてやろうと思っている人間は、ほとんど確実にこういう発想になるのではないかな、と私は思っています。

自己主張できない人間が上に立つ組織は早めに見限るべき

他者の共感を得られるレベルまで磨き上げた正論は、こちらを憎んだり、嫉妬している雑魚が手出しできなくなるほどの力になります。

なぜなら組織の中枢には、正論に対して激しく反応する超上司がいるからです。つまり、組織の本当に上の方にいる社長や会長といった人物は、必ず正論を理解してくれます。

欧米では人間関係があっさりしているので、自己主張をしても嫌われることはあまりありません。嫉妬も少ないし、嫁いびりのようなこともしません。ですが日本は儒教の国なので、クズは「長幼の序」なんかを振りかざして自分よりも優秀な部下や目の前の人間に頭を下げさせようとします。そのために日本で正論を言うことはデメリットが目立つのですが、タイミングを計って慎重に動けば問題ありません。長期的に見た場合、欧米でも日本でも自己主張ができる人間だけが正当に評価されます。

ただし、これは組織に真っ当な生命が宿っている場合だけです。腐敗し堕落したゾンビが支配しているような組織では全く意味がないので、その時はすぐに組織から抜ける方が賢明でしょう。

組織の腐敗度も自己主張の有無で見分けることができます。本来、自己主張をしない、意見を言わない人は非常に軽く見られます。同僚であれ部下であれ上司であれ、組織において役立たずなので小馬鹿にされますし、すぐに閑職に追いやられます。そうなっていないのなら、組織はすでに腐っているのです。

今(2022年10月時点)の某与党総裁は典型でしょう。真っ当な組織なら、一番最初に侮蔑されて閑職に追いやられるような人物です。政治なんて何もできないクズなのだから、総理総裁などもっての他ですし、分相応な仕事をすべきです。そんな人間のクズの最たる存在が総裁になっているのだから、あの組織はこれ以上ないくらい腐敗しているのです。

どうしても組織から出られないなら限界を定めておく

とはいえ、止むを得ない事情で会社から逃げられないなら、どこまで我慢するかを先に決めておくことが大切です。

上司から逃げられない、部下もクズ過ぎてどうしようもない、さらに重要な取引先だから担当者がどれだけ嫌な相手でも切れない、それでも会社を辞められないこともあるでしょう。そんな時は自分の中でここまではクズのために時間を使うが、これ以上は使わない、というラインを定めておくのです。そのラインまでは必死に時間を使って、上司のため、あるいはクズの部下を育成するため、そしてわがままな顧客を満足させるために誠心誠意対応します。

ですが、ラインを超えたらきっぱり「さようなら」をしなければなりません。そうしないと会社の奴隷になってしまいますから、人が人としているためには絶対に必要です。

生きていくために、収入のためにブラック企業でも我慢して勤め続ける人もいますが、そうしているといつかは人の尊厳が保てなくなります。

視野を広く持てば、選択肢はいくらでもあります。環境が変わることに怯えているだけで、実はブラック企業なんて辞めても生きていけるのです。それに、考え方を変えればクズな上司や部下にも誠実に対応できますから、自己主張が伝わるきっかけになることもあるかもしれません。組織の中で1人でも2人でも仲間が見つかれば、何かが変わっていく可能性もあるので、自分の態度を定めて努力することが大切です。

ポリティカル・コレクトネスに頼ってはいけない

ここまで自分の主張、正論をいかに通すかをお話ししてきましたが、正論とポリコレ※は全くの別物だということは理解しておかなければなりません。

最近の話題だと、元自衛官の女性が隊内でセクハラ被害を受けていた問題で、自衛隊が謝罪するといったニュースがありました。この問題は、被害を受けた女性が自分の意見を主張することで世間の意識を変えたという意味では、正論のひとつの形といえます。

ただし、自衛隊は戦争のための組織であり、セクハラに関して過敏になればなるほど軍隊としては弱くなる恐れがあります。例えばこれまで女性を特別視してこなかったことも、戦場で常に女性用トイレを用意することはできないから、などそれなりの理由は存在したわけです。

それをセクハラが駄目だからといって突然体制を変えようとすれば、女性を男扱いせざるを得なかった従来の構造に潜む根本的な問題自体が浮き彫りになります。結果的に、女性を軍人として雇うことそのものを考え直すべき、という流れが必要となるかもしれません。もしくは軍隊が強くあらねばならない以上、男女を一律で扱うのではなく、女性が勤められる場所を区切るといった議論になる可能性も考えられるでしょう。何が正論かは、理性的な議論を交わすことが大切です。

※ポリティカル・コレクトネス=社会の特定集団に対して不快感を不利益を与えないように、偏見や差別を含まない表現を用いること。

しかしここでポリコレが入ってくると、男女差別は駄目だといった話になって、私が今言った正論も簡単に潰されてしまいます。だからこそ、正論とは何かを考える際にはポリコレと明確に区別することを忘れてはならないのです。

コロナにも「自粛しましょう」「ワクチンを打ちましょう」といった、様々なポリコレが存在します。問題は、ポリコレは時に社会的な暴力となり、誰も何も言えなくなるような状況を生むことがある点です。

故に私は『人を動かす正論の伝え方』の本で、正論はポリコレと戦うことでもある、と述べています。ポリコレに乗っかって思考停止していては、人の共感を得て周囲を動かせるような正論にはなりません。ポリコレを使って自己主張をすると上っ面だけの表面的な賛同者は増えるかもしれませんが、イヤイヤ付き合っているだけですぐに離れていきますから、正論で何かを変えたいなら最も避けねばならない態度です。ポリコレという暴力装置を使わずにとことんまで磨き抜いた正論でなければ、真の理解者は得られないのです。

真の「正論」を磨き上げたら適切なタイミングで主張する

繰り返しますが、正論を通すために重要なのは「誰に」「いつ」「どのように」話すかです。

日本においては自己主張を控えるべき局面が多いとはいっても、長期的に見て全く意見を言わない人間の価値はどんどん軽くなっていきます。しかし、言葉だけで真正面からぶつかっても跳ね返されてしまうので、一時的には発信を控えて「自己主張を聞かせるための準備」をします。

真円を描くようにじっくり時間をかけて正論を磨く間にも仲間を増やし、話を聞いてもらえるグループを探し、頭数を揃えておくのです。そして冷静に相手を分析し、正論をぶつけられるタイミングがきたら実行に移しましょう。

真の正論には、人々を動かす力があります。人生の限られた時間を有効に使うためにも、不屈の信念を持って自分自身の正論を磨き上げてください。

取材・執筆:World Academic Journal  編集部